世間に転がる意味不明:新聞社の崩壊はAIが救うか(多様性を受け入れる技術の開発が求められる)
■歯止めがかからない
新聞購読者数の減少は歯止めがかからず、新聞社の存続を脅かしているという報道は以前から指摘されている。
我が家で云えば、息子が独立したが新聞はおろかテレビすら見ない。
また、夕刊を辞めて久しい。
この傾向は一般的なことなのだと認識できる記事もある。
○部数減に人手不足&用紙代高騰…夕刊休止の波、東京にも 朝日は九州・山口で全廃へ
2024.08.31
全国紙では、朝日新聞が9月いっぱいで静岡、山口、福岡の3県で夕刊の発行をやめる。朝日としては、九州・沖縄と山口県を管轄する西部本社管内から夕刊が姿を消すことになる。日本経済新聞も、同じタイミングで北九州市周辺と下関市で夕刊をやめる。
速報性に劣ることなどから朝刊しか購読しない家庭も多く、これに用紙代や燃料費などの経費増加、配達のための人手不足などが追い打ちをかけている。
https://www.j-cast.com/2024/08/31491981.html
新聞配達の店も、かつてあった近隣の3カ所は1カ所に統合されている。
古新聞のリサイクルなども、その量は激減しており、感覚的には10年前の三分の一になっている感がある。
かつて帰宅時の電車に網棚にあった夕刊フジなどのタブロイド的なモノはついとみなくなった。そういう意味では下記の記事も妥当であろう。
○「東京中日スポーツ」事実上の“廃刊”か 「紙媒体をやめるということは“トーチュウ”ブランドが消えることに…」
2024年08月31日
トーチュウこと東京中日スポーツが年内で休刊する。
「事実上の廃刊です」
ネット時代のさなか、地方紙の廃刊が相次いでいるが、ついにその波が東京にも押し寄せてきたわけだ。
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/08311053/
■記事の内容が問題なのか
こうした新聞の衰退を、その記事の質的な特徴に求める記事を見た。
○こうして日本人の「新聞離れ」が進んでいった…「エモい記事」を大量に生み出した新聞記者たちの悲劇的な結末
2024/08/31
日本新聞協会によれば、1世帯あたり部数はついに0.49部にまで下がり、毎日新聞は富山での配送休止を、日本経済新聞の一部九州エリアの夕刊休止という発表も続いた。
全国紙の発行部数は悲惨な状況にある。文化通信が報じた日本ABC協会の新聞発行社レポート(2024年上半期1~6月の平均販売部数)によると、2000年代初頭には1000万部超を誇った読売新聞は約595万部、朝日新聞は約343万部、毎日新聞は約154万部とゼロ年代と比べて半数以下になった。電子版が比較的好調な日本経済新聞も、ゼロ年代と比べて半数以下の138万部となっており紙版の減少分を代替するまでには至っていない。
ネットメディアから出てきた“ジャーナリスト”の記事はどうしてもオピニオン中心という傾向が強く、粘り強くファクトをとってくる技術に乏しいように思う。問題はそれだけではない。推測に推測を重ねたような緩い表現が横行し、情報の重みづけができておらず、陰謀論すれすれか過剰なオピニオンで売り物になる原稿が拡散していく。
https://president.jp/articles/-/85551
これには否定もしないし賛同もしない。
なぜならば、新聞は、様々な記事の特性で構成されており、感情に訴えるような社会的なエピソードもあり得るからだ。
しかし、こうした多様性が新聞の衰退を招いている。
なぜならば、それぞれの記事の生成には代替手段があるからだ。
■インターネットとAI
新聞に求められる価値を考えてみよう。
(速報性)
現在はインターネットでの発信が盛んに行なわれている。災害や事故、地政学的な出来事。これらは、直ちにSNSや数多くある海外メディアで即座に発信される。一日二回配布される新聞メディアは、そうしたネット社会にアクセスできな人々にしかニーズが見込めない。
(文化性)
かつて夕刊には連載小説があった。今でもあるだろう。朝刊にも見られる。識者へのインタビュー記事や書評や映画紹介などは、自分の興味のある分野では有益な情報であろう。しかし、これもSNSや自分の好みに合ったモノを紹介するアマゾン、囲碁や将棋、スポーツなども、主宰者側からの情報発信があり、新聞でなければならない理由が薄れてゆく。
(解説的特性)
経済欄にしろ政治欄にしろ取材してきた主観的な情報、データとして明白な情報があったとしても、その背景までを知らないと、その情報の意味を判断できない。こうした自分とは異なる味方での記事は、個人的には重要だと思っている。もっとも、記事に責任を持つ署名記事は滅多に無く、代わりに、著名人のサイトを眺めることもある。しかし、行使体験的な記事や解説的な記事には客観性はなく、読む側に知見が求められる。
(娯楽性)
スポーツに代表される記事は、すでに新聞が出る頃には皆が周知として広がっている。ではと言うことで、週刊誌のようなゴシップネタは新聞で掲載される必要は無く、数ある中での情報源の一つでしかない。
こうしてみると、上記の「エモい記事」という説明は、新聞記事の中のごく一部にしか過ぎず主たる理由はならないことが分かる。
情報源という意味では、すでにインターネットで代替される部分が多く、事実だけを伝えるのであれば、AIで代替できる。
○石垣市 競技施設にAIカメラ 自動配信システム導入へ
2024年05月24日
「スポーツ自動映像化プラットフォーム」として撮影映像をAIが自動編集し、配信を行う。カメラは総合体育館に2~3台、ロートスタジアムに2台、あかんまに1台。プライバシーに配慮するため、出場・出演者の同意を得る。会場に足を運べない人も、専用アプリケーションやウェブ、配信サービスを通して視聴が可能。
https://www.y-mainichi.co.jp/news/40552/
もう10年ほど前であるが、アメリカのスポーツ記事はAIが作成しているという噂を聞いたことがある。多くの記事を参照して解説するAI機能があるとも聞く。
単に情報を伝えるのであれば新聞である必要は無い。
■紙の新聞メディアを否定しているのではない。
(情報弱者への配慮)
インターネットに容易にアクセスできない人々がいる。社会的な使命として彼らを取り残さないというのであれば、これを維持する努力は必要である。しかし、多売を前提としたビジネスモデルは限界が来ている。印刷機械を工夫することや印刷用紙の取得の容易性を高めるなどして、地方の小規模印刷所でも対応できるようになれば、少なくとも物流コストは低減できる。
(多様な意見の表明)
民主主義の原点は、「正しい意見が存在しない以上多様な意見を尊重する」にあると考えている。そのため、「賛成/反対」も含めて、なぜそう考えるのかの表明の場が必要である。人は自分の信じたいことだけを信じると云うことがあったとしても、多様な意見を列記する場が必要である。そのためには、情報源が一つでは心許ない。多くの新聞社が乱立すべきである。
こうしたことを考えると、大手新聞社が斜陽産業になっていることが問題なのではない。多種多様な新聞社が、8個部数が多くないと成立しないビジネスモデルが問題なのである。その延長線上で「エモい記事」を作らなければならない状況を憂うべきである。
2024/09/09
(類似記事)
○なぜ新聞を取る人が少数派に転落したのか…生き残りをかけて「エモい記事」を氾濫させる新聞の根本問題
あの記事は、ぼく自身がもともと持っていた問題意識から書いたものです。最近の新聞記事は個人の感情に訴えるようなエピソードを優先しすぎて、エビデンスの提示やデータの分析が疎かになっているのではないか、と。
同じようなことは以前から述べており、例えば委員を務めている毎日新聞の「開かれた新聞委員会」が2023年夏に実施した座談会でも〈エピソード主体の記事に違和感がある。流行している印象だが、世の中が複雑になり、エピソードは一つの例に過ぎないだけに、それを読むことにどれだけの意味や理由があるのかと感じる〉と指摘しています。
朝日の記事では、こうした「エピソード主体」や「ナラティブ(物語)を強調する」傾向を「エモい(感傷的)」と表現してタイトルに入れてもらったところ、非常に大きな反響、反応を得ました。