ヒト、犬に会う 島泰三

 

 

 

 

 

 

 

 

日本アイアイファンドの理事長の島泰三先生は、ニホンザルを始め様々な動物の研究をされており、世界中を飛び回っている。世代としては、私のひとまわり上であり、大学紛争を生き抜いてきた方である。ヒトと云う種に対しては、愛情もあり同時に絶望感もある。そうした先生が出された最新刊になる。

いわゆる「愛玩動物としての犬」ではなく、古来身近にある神聖なもの、例えば神社yにまつられている狛犬などの意味なども念頭において、人間が音声言語を獲得して行く意味づけなどを解き明かしている。

本の前半は、種の進化としての犬の解説なので、多少科学的な要素が強い。とはいえ、元々が学者である先生の本なので一般教養的には知っておいてほしいところだ。ヒトと犬がともに生き残るために、お互いを必要として行く経緯がわかる。

「ことば」を、自分の「思い」や「計画」を相手に伝える手立てだと仮定すれば、音声と身振り(手話、サイン)と文字(記号)の三つの言語に分けて考えることができる

で始まる「第四章 「ことば」はどのように生まれたのか」がメインのテーマになるだろう。

「ことばは何の役に立つだろう」の最初の一節

”ニクラグア手話で分かるように、人間たちは手話だけでコミュニケーションができるのに、なぜ音声言語を使うようになったのだろう”

と言う素朴な疑問は、異種間(イヌとヒト)でのコミュニケーションにその礎を求めていると理解している。

それは、お互いを理解して行くためのヒントにもなる。

最終章、「第五章 こんなことが信じられるか?」には、以下のような記載がある。

孔子の「恕」は「おもいやり」とも訳されるが、それでもこの言葉の意を尽くしきれない。それは「相手を対象者として対応する関係性を創る生き方」である。
「言葉」は、このような関係の中だけで意味を持つ。そうでなければ、同じ種の中では身振りと表情だけで正確にコミュニケーションができるのだから、わざわざ言葉に変換する必要はない。

<中略>

合理性はお互いの関係が同等であるという前提で、相互にそれぞれの違う見え方を尊重するときにはじめて出発できる。その両者が同じ目的に向かって行動しなくてはならない時、犬と人との間に確実なコミュニケーションを決めるものは、この合理的な音声言語の言葉である。

進化の系統や文化的な事柄を、実証的なデータを基に記述するとともに島先生の思いなども詰まっている読み応えのある一冊だった。

ヒトといろいろな話をする機会がある。その時に、お互いの価値観や認識の違いでコミュニケーションに齟齬をきたすことがある。これを修復してより望ましい軌道の載せるためのヒントがここにあると感じている。

ぜひご一読を。

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