本稿は、現在進行中のヒューマノイド開発を素材にしながら、人間と技術の関係性、そして“人間とは何か”という問いそのものに立ち返ろうとする試みである。
■ ヒューマノイドの現在位置
「実用化に向け工場や倉庫で実証開始。「退屈、危険、汚い」作業の代替目指す」とする下記の記事は、ヒューマノイドの方向性の一つを指し示すものだと思う。
○人型ロボ、AIで進化 開発は歩行から作業スキルへ
2025.7.4
世界の工場や倉庫で、人工知能(AI)駆動による人型(ヒューマノイド)ロボットの実証が始まった。
人型ロボット開発ベンチャー、米フィギュアAIは2025年3月、年間最大1万2000台を製造できる量産工場「BotQ」を発表。同社は今後4年間で最大10万台の人型ロボットを生産・展開する計画だ。BotQでは同社の人型ロボット「フィギュア02」が人間と一緒に働く。生産ラインの主要部品を組み立てるだけでなく、異なる作業ステーション間で物資を運搬するマテリアルハンドラーの役目を担う。
https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00109/00251/
従来の、こうした役割は、必ずしもヒューマノイドである必要はなく、工場での溶接などの特定用途のロボット、部品などの移動やセッティングを行なう協働ロボット、倉庫などの物流支援、配送のための自動運転、ビル警備の巡回や配膳などの自律的な移動をするロボットなど多様のものが開発されている。
これに加え、建設現場やその他の工事現場、高所作業など、労働安全上の危険な業務もこれをロボットで代替するという発想は理解できる。
しかし、機能性を考えれば必ずしも人間にもして両手・両足にこだわる必要はない。にもかかわらず、こうした研究開発は進んでいる。
いずれ、多くの場所でヒューマノイドを見ることになるのかもしれない。
■ ヒューマノイドにこだわる理由
機能性だけを考えれば、千手観音のように多くの多関節の手を持ち、収納可能にし、6足歩行などを実装した方が良いように感じるがそうはならない。
AIにこの辺を整理してもらうことでやりとりすると以下の点を指摘される。
①既存の都市設計・インフラへの適用性
人間の生活環境(階段、ドアノブ、エレベーターのボタンなど)は“人間の体”を基準に設計されている。そのため、既存の建築や都市インフラを改修するよりも、「人間型ロボット」の方がインターフェースの互換性が高い。
もっともこれは順番が逆で、そもそも、車椅子で歩道を走行できない、階段を上れないなどのバリアフリーを解決しないままでの議論は納得できない。
②文化的・心理的側面
人間は人型に近い形の方が彼らの「意図」「行動予測」「感情の読み取り」がしやすいという意見がある。顔、腕、視線、姿勢などが社会的手がかり(social cue)として働く。
この視点では、人型とは心理的・対話的な合理性を持つ形態とも言える。
ただしこれは期待と混乱を生む両刃の剣でもある。一つは「彼らは人間ではない」のにヒトに似すぎて「人格」を錯覚させる。
これは人間の欲望・模倣・創造神話としての文脈で理解される面がある。
神話的には「人間に似たものを創ること」=創造主(神)に近づく行為と理解できる。
ヒト型のアンドロイド・ロボットなどの原型はギリシャ神話におけるタロス(Talos)やヘファイストスの自動人形たちに遡ることができる。これらは、現代で言えばヒューマノイドやAIの原型的な存在であり、そこには、古代から続く人間の根源的な欲望が色濃く表れていると考えられる。
「自分と似た存在を創る」ことは文化的・心理的な欲望の表れでもある。人間型ロボットは、単なる工学技術ではなく、自己投影の対象として成立しているとも言える。
これは、人間側が取り組むべき課題となり得る。
③技術的有意性の発露
総合知能や汎用性のデモンストレーションとしての象徴性がある。企業が開発するヒューマノイド(例:トヨタのTHR-3、TeslaのOptimus)は、単なる作業機ではなく、「高度な制御技術」「環境認識」「柔軟性」「協調性」を総合的に表現する“プラットフォーム”としても使われている。この面でも、こうした研究は続けられることになるだろう。
参考:「東京大学発スタートアップの株式会社Highlanders(ハイランダーズ)は、2025年6月30日、独自開発のヒューマノイドロボット『HL Human(エイチエル ヒューマン)』のプロトタイプを初公開した。」という記事に関連して、ハイランダーズのホームページを観た。
参照:https://robotstart.info/2025/07/01/hl-human.html
参照:https://www.highlanders.co.jp/
■ 癒やしの世界
ヒューマノイドに関しての課題は多いものの、それでも単に労働力の代替ではなく社会的弱者(ハンディキャップを持つ人々)への支援になるのではないかと期待している。部分的な肉体のハンディ(両足がなく車椅子でしか移動できない、両手がなく、自分の力だけでは料理もできないなど)を持つ人々が、部分的なサーボーグ化で機能支援ができるのであれば生活が豊かになることが期待できる。
難病で「動けない」ヒトが、ヒューマノイドと関連技術を活用することで、疑似体験を強化することにより、広い世界に触れることでの癒やしを得られるかもしれない。
可能性についてAIに訊ねて見た。(一部中野が加筆)
① アバター・ロボット(分身ロボット)
OryLab(オリィ研究所)の「OriHime」は、身体が動かない人でも、自分の意思でロボットを遠隔操作し、接客や会話、外出感覚を得られる。オリィ研究所では、OriHimeを使っている難病患者自身が、
「動けない私にも役割があると思えた」「カフェの“仕事”を通じて他者とつながれた」
という証言もある。
こうした事での発想の拡張では、病室にいながらカフェで働ける・旅先に「自分の目」が届く体験が可能であることも含まれる。これは、“身体の限界を超えて世界と関わる”ためのテクノロジーであり、存在を「閉じ込めない」仕組みです。
② 360度映像+触覚・嗅覚再現
旅先の風景を高精細カメラでリアルタイムに届けるだけでなく、風や匂い、音の質感を伝える技術(触覚インターフェース)が発展中。これにより、「ただ見る」ではなく「居るように感じる」感覚を持てるようになりつつあります。
③ ストーリーテリングや記録を活かした“代理的経験”
誰かが旅をし、その人の感覚・気づき・喜怒哀楽を丁寧に共有する。
これは「他者の目で世界を見る」ことで、身体を通さず“心が旅をする”体験になります。
(ここまで)
こうした「ヒトがヒトらしく生きる」を支援できる世界は望ましいと感じている。
■ 争いの世界
一方で、懸念もある。
本来は、社会を豊かにするために開発された技術が戦争に使われると言うことだ。
エネルギー問題の解決の為の核は、その当初から破壊兵器として使われている。
ドローンなども都市を破壊し、ヒトを殺傷している。
ヒューマノイド型兵士が戦場に投入されると言うことは、まだブレーキがかかっているようだが、いずれそうならないとは言いかねない。現在のAIでは、たとえばヒトに対するご認識の可能性もあり投入ができないと言うが、では精度が上がれば投入するのかと疑問を感じる。
AI・ヒューマノイドをはじめ、どのような発展をしようが彼らは「道具」の域を出ないだろう。道具であれば、それはあくまでも使う側の責任で管理しなければならない。
簡単に平気を投入して他者を殺すことを厭わない人間にそれができるのかという懸念がある。
■ヒューマノイドに向き合うための知性
いずれ「知性に近いものを持つ」ヒューマノイドが生まれるだろう。
しかし彼らは人間ではない。何かの意図しない結果に対して責任を負わせるべきものではない。彼らは「中立」である。しかし、その技術を活用する人間は「中立である」とは言いがたい。
その根底にあるのは「欲望」にるリスクが高い。
・自分の代わりに動く存在への渇望
・人間の限界を超えたいという欲望
・絶対的な支配ができる神になりたいという欲望
こうした欲望に向き合うためには
「なぜ、これを作ったのか?」
「なぜ、ここまで人間に似せる必要があったのか?」
「誰のための存在なのか?」
という問いを手放さないことである。
これが、未来の技術を正しく使いこなすラメの知性だと思う。
2025/07/09