雇用されるリスクと機会

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しばらく前だが、経団連の中西会長が「終身雇用は維持できない」というような主旨の発言をしたとの記事が目についた、

元ネタを探ったのだが甘いはっきりしなくて、なんだかアングラ的な記事しかない。

https://news.tv-asahi.co.jp/news_economy/articles/000152820.html

私自身は期間を定めない雇用契約を特定企業と結ぶという永続的は働きを前提にした活動はほとんど無く、そもそも終身雇用が、言葉としてわかるのだが実感できない。

さて、こうしたことを題材にして少し感じたことを記載する。個人的な思い込みも入っているのでご容赦を。

○定年延長と言うこと

すでに準備を始めている企業も多いだろうが、政府は60歳定年を65歳まで延長することを求めている。単純に企業側からすれば労務コストの増加を意味しており、最も簡単な施策は、60歳まで支払っていた生涯賃金をそのままにして65歳までで割り戻すことだろう。

もともと、55歳の定年を60歳まで延長する際に多くの企業が行ったことは
・50歳で役職定年にする
・55歳から暫時給与を下げて60歳時点では半額にする。
・60歳からはさらに60%水準として、高齢者継続雇用給付金で補填する

60歳以上は再雇用であり、必ずしも全員が希望するわけではないので実質的には60歳定年で、60歳以上まで働く人は限定的であったと割り切れば労務コストは政策対象外で良かったと思われる。

これが65歳までの定年延長と言うことになると話が違ってくる。
労務コストの上昇を抑えると言うことになると、大きくは二つのやり方しかない。

①組織全体の賃金カーブを緩やかにして全体を下げる
②50歳以降の賃金をさらに減額して、減額した分を65歳以上の原資にまわす。

これはあくまでも個人の意見だが、「まともな給料を払えない経営者は無能だ」と思っている。最初から労務コストという概念を入れるのは従業員を馬鹿にしているとしか思えない。

経営者の役割は「社員が能力を発揮できる環境をつくること」だという信念もあり、上記に考え方には賛同できない。

まずは、社員にどのような働き方の選択肢を提示できるのか。その上で、報酬という利益分配をどうするのかの議論をするべきだろう。

○従業員の流動性は変わるのか

さて、こうした雇用期間の延長は若年層と高年齢層では受け止め方が異なるだろう。
すでに50歳に近いかこれを超えた人々は、あと10年働くことが15年になるだけで、今更のキャリアパスは変更されないだろう。
如何に給与が減らないかにしか関心が向かわない気がする。

正直、この層の人への私の関心は薄い。
新たな人事制度を設計しても、この人々は会社から退場するまでは旧の人事制度を適用する以外にはないだろう。

問題は、今の20代の人々だ。自分自身の20代の頃を思い出したり、今は20代の息子と話をしてみたが、「そんな先の話はわからない」というのが正直なところだろう。
今から何かを準備すると言うことは考えられない。

従って、こうした雇用延長を機会に「社員にどのような働き方をしてほしいのか」の選択肢を設計しなければ、ある日突然業績が悪くなり、事業再編にあわせて「整理解雇」をしなくてはいけない羽目になる。

「40歳定年説」という論が以前に出てきていたが、入社してから40年、50年と同じ会社に漫然としがみついてゆくのかを真剣に考える必要がある。
若年層に対して、複数のキャリアパスを提示できない組織は、経営資源としての人材をまともに使えるとは思えない。

従業員も、何をするかだけでなく「どこでするか」も含めて考える必要がある。
流動性を意識しておいた方が良い。

○退職勧奨

社内でのキャリア、事業や部門の流動性を自分自身の特性として受け入れられない場合、会社からの雇用は期待できない。
最悪解雇と言うことも組織としてはやりたいだろうが、労働契約上はむやみにできない。そのため、「追い出し部屋」のようなあくどいことをする企業もあると言うことはニュースなどでも取り上げられていた。

ところで厚生労働省のサイトを見ていてなるほどなぁと思ったことに「退職勧奨」という分類があった。

下記の記載になる。

4 退職勧奨について
解雇と間違えやすいものに退職勧奨があります。退職勧奨とは、使用者が労働者に対し「辞めてほしい」「辞めてくれないか」などと言って、退職を勧めることをいいます。これは、労働者の意思とは関係なく使用者が一方的に契約の解除を通告する解雇予告とは異なります。
労働者が自由意思により、退職勧奨に応じる場合は問題となりませんが、使用者による労働者の自由な意思決定を妨げる退職勧奨は、違法な権利侵害に当たるとされる場合があります。
なお、退職勧奨に応じて退職した場合には、自己都合による退職とはなりません。
(https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudouseisaku/chushoukigyou/keiyakushuryo_rule.html)より抜粋

なるほどなぁと思ったのは、「自分でやめざるを得ない環境」をつくって手を上げさせるというのが発想なのかと、その貧困さに悲しくなる。

もっとも、企業にとってはいろいろ切実だろうと思う。
かつて在籍していた、IT企業では、COBOLプログラマーを多数抱えていたが、Object思考の広がりと言語としてのJavaのはやりで、プログラミング技術の移転が必要だった。しかし、今までCOBOLをやっていた人がすぐにJavaを修得できるわけでもなく、大量解雇を余儀なくされたことを記憶している。

ただし、しっぺ返しも食らっている。2000年問題に対応するために再びCOBOLプログラマーが必要なのだが調達できず、その年の業績に影響したと聞いている。

いずれにしろ、先を見誤って、社員を手放す事態を招くと言うことは避けたいところだろう。

○雇用で得られる物と失う物

さて、このような話を始めたのは昨日のクライアントや知人との話の中で、同じ職種(コンサルタント?)なのに、社員で活動するときは時間給で管理され、活動の有無にかかわらず給与が支払われることに対する疑問があるという主旨の意見を聞いたからだ。

私自身は、現在ISO9001の審査員を行っており、報酬は純粋に働いた日数で換算される。同じ審査員でも認証機関に所属している社員は月給なので、審査をしようとしまいと一定の給与が支払われる。

同一労働なのに全く報酬体系の違う職種があることは、ある意味どう考えれば良いのだろうと悩む。

雇用されることで給与が限定されるが、逆に保証を確保できる。生活に対する安心が確保できる。一定程度の計画性のある人生を設計できる。その中で、会社や上司に言われたことは納得していないとしても一定程度の服従を求められる。

私は人に価値観を供用されることをひどく嫌う傾向が強い。仕事をする上でステークホルダーとの調整は必要で、一定程度の服従は強要される。しかし、雇用される立場と決定的に違うのは、意思決定は自分で行うと言うことだ。

おそらくは同じ服従であっても選択の範囲が異なるような気がする。

こうした、結局は自分自身で意思決定をしたいという思いで雇用されることを拒否した結果、精神的な安寧を獲得できたというのが最大のメリットだろう。逆に将来にわたっての安定性は失った。

もっともそのおかげで、常に新しい物に挑戦し続けなければならない宿命を背負わされた気がする。これはこれで楽しいのだが、皆に勧められる人生ではない。

雇用は、自由を失うが安定を手に入れることができる。はずだが・・・自分の仕事がずっと必要視されるかどうかはわからない。安定が保証されないなら雇用はどんな意味を持ってくるのか?

働き方は自分自身で開発しなければならない時代になっているのだと思う。

閑話休題

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