世間に転がる意味不明:リスクを受け取るのは誰か(原子力規制委員会の役割と行政の無責任さを嘆いても仕方ない)


■リスク

リスクの定義は色々あるが、私は「未来を左右する出来事」と定義している。その意味で、「日本では地震がある」と云うことは何をするにしてもリスクになる。リスクに対応する考え方には、「無効にする(それが置きでも被害をゼロにする)」「軽減する(被害を少なくする)」「移転する(被害が起きても対応できる様に保険をかける」などが挙げられ、それに対して何もしないというのは「無視」と云うことで、これもないことはない。

しかし、一番の悪手は
①考えない(議論の俎上にあげない)
②一度決定した計画を変えない
であろう。
なぜなら未来は誰にも分からないのだからいろいろ考えた結果が正しい保証もなくいつも心配するのが人間なのだから。

しかし、そうした考え方を持たない人々もいるようだ。

■現実的でないことが分かった避難計画

2024年1月の能登半島の地震では、道路が寸断され、港は使えなくなり、孤立する村落などがおおくなったことは周知のことであろう。こうした記事の影に隠れているが志賀町の原発ではモニタリングポストが使えなくなり、いくつかの設備に運用上の支障が出ていたことは断片的な記事で見た。

こうした記事を見ると、原発での事故が実際に起きたときの避難計画が、その状況によっては実現不可能であることが明白であろう。なぜなら、そもそも原発事故の想定は福島第一原子力発電所の地震による事故なのだから,前提として「地震」を考えるべきであるからだ。おそらく日本中の原子力発電所に関わる避難計画を見直す基準を考えなければならないというのは一般常識だと思っていた。

そうでない人々を見ると驚く。

○原子力規制委「自然災害への対応は範疇外」 道路寸断、家屋倒壊の中での避難対策は自治体に丸投げ
2024年2月14日

 見直しの議論は、屋内退避を原発からどれぐらい離れた場所に住む人々が何日間ぐらい実施するかや、解除の判断基準など、現行指針に具体的な記載がない項目に限る。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/309302

この記事の中で「原子力規制委員会は14日の定例会合で、原発事故時の防災対応を定めた原子力災害対策指針の見直しについて、環境に拡散した放射性物質による被ばくを避ける住民の「屋内退避」の手法に限って議論する方針を決めた。5人の委員全員一致の判断。能登半島地震では家屋の倒壊や道路の寸断が多発し、屋内退避や避難が困難だったことが判明したものの、それらの課題を想定せずに検討を進める。」とあるが、そもそもその家屋が使えない上に上下水道・電気・道路のインフラがお釈迦になった時点で、上記の議論は成立しない。

それは原子力規制委員会の役割ではないというなら、何を配慮すべきかの基準を示し、それを自治体に実行させるメカニズムが必要である。

■すべきこと

今回の能登半島地震は、すでに数年前からその危険性が指摘されていた。にもかかわらず目の前の経済を優先する政治家の力学で災害対策は行なわれてこなかった。都合の悪い数字は無視するのは東日本大震災においても同じであり、東京電力の津波の危険性無視と同じ構図である。

ここから見えてくるのは、「備えあれば憂いなし」は政治家や経済人に任せてはだめであると言うことである。もちろん彼らが無能であるとまでは言わない。しかし結局は施策は他人事である。自分たちのことは自分たちで考えなければならないというのが今回の教訓であろうか。地域のコミュニティで対応できるように社会システムを構築すべきである。

もっとも云うはやすしであることは認める。さてどうしたものなのか。

(2024/02/27)