『善とは一言に言えば人格の実現である』
西田幾多郎の「善の研究」からの引用です。
昨年、いろいろな人との話やセミナー、書籍などに接する中で、その人がおそらくは専門家として持っている常識を当然のように持ち出していることに違和感を持ち、その中で使われている諸々の考え方を確認するために、いろいろな本を読んでいる。
西田幾多郎の「善の研究」もその一つだ。
この本は、かなり昔に一読して理解できず、その後も何度かチャレンジしているがやはり難しい。
『我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。すなわち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有するものを抽象したに過ぎない。』
この一文だけを読んでしまうと、唯物史観ではなく観念論を重視しているように見えるが、それほど単純な話ではない。私の理解では、意識現象と物体現象は切り離されているのではなく、どちらを先に考えるべきかの指針を示したに過ぎないと考えている。
結局、西田哲学というのは「認識」というものをどう捉えているのかと言うことを俎上にあげているのではないかと思う。一緒に考えなければいけないカテゴリーに「弁証法」や「形而上学」の考え方もある。こうしてみると、西田哲学は、物事をどう見るのかの一つの方向性を示しているとも言える。
昨年お会いした人の中には常識としていろいろな言葉を使う。しかし元々の意味は何であったのかを自ら確認しているのだろうか。
「オープンイノベーション」をチェスブローの本までたどったのか、「バランスドスコアカード」をキャプランまでたどったのか。どうしても疑問がでてしまう。
一方で、数理科学やシステムを少しでもかじったことがあれば当然知っている「CMMI」や「正規分布」、「Input-Process-Output」を”あなたしか知らない言葉は使わないでください”と一蹴する。
「これは一体何だろう」と考える習慣を放棄して、皆が「Yes」と言うから、偉い先生が言うからと言うことで無条件に受け入れて行くことは危険だと感じる。
冒頭の『善とは一言に言えば人格の実現である』はそのまま受け入れないにしても、では「企業にとっての善を実現する、法人としての人格」とは何か?
社会的な責任などでSDGs等に目を向けるのは良いとしても、それはなぜかと言うことも考えないと、単に「自分に利するから」という身も蓋もない”人格”の反映になりかねない。
参考:
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